1970年3月23日~3月29日
【動画18分】 撮影・編集  石川栄一 「原版は8ミリフィルムです。【映像・音声は当時(1970年・45年前)のものです】」
日本万国博覧会 大阪万博 EXPO'70 会場案内
「太陽の塔」の横の池
日本館と池
日本館
日本館 リニアモーターカーの模型
動く歩道
動く歩道の外観
古河パビリオン(七重の塔)
ソ連館(中央)
アメリカ館 アポロ
アメリカ館 アポロ12号が持ち帰った「月の石」
カナダ館(左側)
富士グループパビリオン
空中から見た万博会場
日本館
三菱未来館(左側)
古河パビリオン
日本館(左側)
お祭り広場方面
噴水の夜景
太陽の塔
 
 
 
 以上、写真(撮影)石川栄一
 
 
 
 


日本万国博覧会 大阪万博 EXPO'70

日本万国博覧会(にっぽんばんこくはくらんかい、英:Japan World Exposition)は、1970年3月14日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催された国際博覧会。
アジア初かつ日本で最初の国際博覧会(General category:一般博、現・登録博)であり、当時史上最大の規模を誇った。
略称は開催地の名から「大阪万博」、一般的な英語表記としては「EXPO'70」が用いられた。また、日本国内において単に万博あるいは万国博とも略される(本項の記述にも用いる)。
主催は、財団法人日本万国博覧会協会。
博覧会の名誉総裁は当時の皇太子明仁親王、名誉会長は当時の内閣総理大臣、佐藤栄作。


概要
開催期間中の会場風景。右前方に太陽の塔が垣間見られる。1970年4月撮影。
人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ヵ国が参加し、戦後、高度経済成長を成し遂げ。アメリカに次ぐ経済大国となった日本の象徴的な意義を持つイベントとして開催された。
日本においては1964年の東京オリンピック以来の国家プロジェクトであり、多くの企業・研究者・建築家・芸術家らがパビリオン建設や映像・音響などのイベント制作・展示物制作に起用された。
大阪市など会場周辺市街地では万博開催への整備がなされ、道路や地下鉄建設など大規模開発が進められた。

一方、第二次世界大戦以来の規模となる芸術家らの国家イベントへの動員は、文化・芸術界内部で批判があったほか、同じく1970年に予定されていた日米安保条約改定に関する議論や反対運動(70年安保闘争)を大イベントで国民の目からそらすものだとして、大学生らによる反対運動も行われた。

テーマ館の太陽の塔やアメリカ館・ソ連館などの、人気パビリオンでは数時間待ちの行列ができるなどして大変混雑した。
特にアポロ12号が持ち帰った「月の石」を展示したアメリカ館の行列は延々と続き、途中であきらめて他の館へ行く人も多かった。

その異常な混雑ぶりから、テーマをもじって『人類の辛抱と長蛇』や『残酷博』と揶揄されたことがある。また、国際博覧会史上初めて黒字となった。

名称:日本万国博覧会(Japan World Exposition)
テーマ:「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)
開催期間:1970年3月14日~1970年9月13日(183日間)(一般公開は3月15日から)
性格:国際博覧会条約に基づく第1種一般博(General/first category)
会場運営:財団法人日本万国博覧会協会
面積:330ha
総入場者数:6,421万8,770人(うち外国人 約170万人)
目標入場者数:3,000万人(その後5,000万人に上方修正)
参加国数:77カ国、4国際機
迷子になった親と子供の数:22万643人
モノレールへの乗車人員:約3,350万人
売上金額:入場券 約350億円 食堂・売店関係 約405億円
1日の入場者:最高 83万5,832人(9月5日)最低 16万3,857人(3月16日) 平均 約35万人
迷い人:大人 12万7453人 子供 4万8190人
落し物:5万227件(その内、金銭は4,780万円)
食中毒:43件 計404人

大阪万博の最終的な総入場者数は約6,421万人で、2010年中国・上海で開かれた上海万博に抜かれるまでは万博史上最多であった(上海万博は約7,308万人)。
また、愛称の「万博(バンパク)」は、この博覧会の正式名称の「万国博覧会」を略したものだが、その後の博覧会の愛称にも引き継がれている(科学万博(つくば博)、花の万博(大阪花博)、愛知万博(愛・地球博))。
なお、1940年3月15日から8月31日にかけて東京で開催される予定で、日中戦争の激化などを受けて開催延期された「紀元2600年記念日本万国博覧会」の前売り券が本博覧会で代替として使用できたため、約3000枚が実際に使用された。


シンボルマーク

大阪万博の公式なシンボルマークは、日本の国花である桜をかたどったもので、デザインは大高猛。当初は西島伊三雄デザインの、鉄アレイ状の上に丸を描いた形で、東西世界の融合などを表しているとの説明だったが、シンボルマーク発表の記者会見の直前に万博協会会長の石坂泰三が「これでは日本が世界の上にあぐらをかいている」と激怒し、一蹴した(その日の会見は中止)。

その後改めてデザインが行われ、桜をイメージしたマークとなった。「五つの花びらは五大州すなわち世界を、中央の丸は日本のシンボル日の丸を、周囲の白い部分は発展への余裕と伸びようとする意図を表している」と説明された。なお、日本館はこのシンボルマークを模って建設された。


日本万国博に参加した 国・地域・国際機関

国際博覧会史上アジアで初めて開催される大阪万博に、できるだけ多数の国の参加を得て充実した意義あるものとするため、在外公館を通じて未参加国に対して参加勧奨に努めるとともに、総理大臣または万博担当大臣の特使および万博日本政府代表のほか博覧会協会幹部職員等を派遣して折衝を行なった。
その結果同年中に新たに中央アフリカ共和国ほか25ヵ国が参加を決定し、参加決定国は合計81ヵ国に上ったが、他面、財政事情その他の理由により5ヵ国(ポーランド、イスラエル、ガイアナ、ハイチ、コンゴ(当時の旧国名ザイール))が参加を取り消した。最終的には、77ヵ国(日本を含む)、4国際機関、1政庁、9州市が参加した。


テーマソング

世界の国からこんにちは(万博テーマソング、作詞:島田陽子、作曲:中村八大)
1967年発売。
三波春夫(テイチク)・坂本九(東芝音楽工業)・吉永小百合(日本ビクター)・山本リンダ(ミノルフォン)・叶修二(日本グラモフォン)・弘田三枝子(日本コロムビア)・西郷輝彦(日本クラウン)・ボニー・ジャックス(キングレコード)の競作で発売され、総売上は300万枚を超えた。
万国博音頭(作詞:三宅立美、補作詞:西沢爽、作曲:古賀政男)
1966年発売。歌手は村田英雄。この曲は競作ではなかった。


万博に出展し、その後 実現普及したもの

技術
温水洗浄便座(ガス館)
動く歩道
エアドーム(アメリカ館、富士グループパビリオン)
ワイヤレスフォン(現在の携帯電話、電卓の機能まですでに内蔵されていた。電気通信館)
アストロラマ(みどり館)(360度全天周スクリーン映像。以後の各博覧会で見られた全天周映像やオムニマックスシアター等、他、デジタル映像式プラネタリウム投影機の先駆け)
テレビ電話(第三世代携帯電話でほぼ普及した)
ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)
モノレール(アルウェーグ式を改良した日本跨座式が会場内にて初めて運用された)
サインシステム(ピクトグラムと共同運用した最初のもの)
電波時計(UHFを用いて会場内の時計の時刻を原子時計の時刻に同期させた)
原子力発電 (敦賀発電所 1号炉が開会式の日に営業運転開始、開幕式会場へ送電(詳しくは敦賀発電所の大阪万博の項目参照)。このころから実験的な第1世代より十分な商用、安全に耐える第2世代原子炉が普及し始め、日本を含む各国でさかんに建設、運転された。)


食文化
缶コーヒー(UCC上島珈琲)
ファーストフードやファーストフードチェーン(ピザ、ケンタッキーフライドチキン、ドムドムバーガー)
ファミリーレストラン(アメリカゾーンに外国店扱いでロイヤルがステーキハウスを出店、この実績がのちにロイヤルホストへとつながる)
コーヒー味のソフトクリーム(エチオピア館)
甘味料での味付け、及びコーンスターチ・ゼラチン・寒天などによるババロア状加工を一切行なっていないヨーグルト(ブルガリア館)(のちに各社から販売された。発売は明治ブルガリアヨーグルトが最初。)


万博で登場したが、 いまだ普及途上にあるもの
国鉄式浮上式リニアモーターカー(日本館、国鉄)
JR東海が「リニア中央新幹線」を計画しており、山梨県で実験中であるが、営業線は日本のどこにも未だ敷設されていない。
JR(国鉄)方式(超電導リニア)以外は実用化されたものがある。鉄輪式(非浮上式)は各地の地下鉄で、浮上式で低速型HSSTは2005年の愛知万博のときにできた愛知県のリニモで、超高速型トランスラピッドは上海リニアモーターカーで実用化されている。
空中ビュッフェ(会場各所) - ドン・キホーテ大阪道頓堀店に同様の観覧車がある。
ファクシミリ配信型の新聞 - 類似のものとしてポーリング受信によるファックス情報サービス。なお、インターネットで紙面を配信するサービスはすでに始まっている。
人間洗濯機(サンヨー館) - ミストバス(身体障害者用自動洗浄浴槽)、介護用浴槽として浸透しつつある。なお、人間洗濯機は現在も三洋電機(後のパナソニック)に保管・公開されているが、既に使用不能になっている。
電気自動車 (ダイハツ工業)
現在の日本では、三菱・i-MiEV(2009年)や日産・リーフ(2010年)などが販売され、徐々に普及しつつあるが、充電容量や充電用インフラの整備が課題となっている。
アメリカではテスラ社が全国規模での販売を行っているほか、ハイブリッド車や燃料電池車の開発に大いに貢献している。


博覧会閉幕後

会場跡地はビジネス副都心・研究都市など様々な開発案があったがどれも明確な計画ではなく、最終的には公園として再整備され1972年に万博記念公園として開園している。
多くの自然文化施設、文化施設、スポーツ施設、レジャー施設が所在し、今も多くの市民に親しまれている。また、開催中から営業していたアミューズメントエリアのエキスポランドは、2009年に閉園となった。
博覧会を主催した日本万国博覧会協会は、1971年9月に設立された日本万国博覧会記念協会(大蔵省主管)にその業務が移管され、その後2003年に特殊法人の整理合理化計画に伴い、独立行政法人日本万国博覧会記念機構となった。
しかし、2013年に記念機構を廃止する法律が成立し、2014年4月1日付で記念機構は解散、万博記念公園の運営は大阪府に、また基金事業は関西・大阪21世紀協会にそれぞれ引き継がれている。


パビリオンの転用
カンボジア館 - 広陵町自治会集会場(兵庫県神戸市北区広陵町、1971年移築)
オーストラリア記念館 - 三重県四日市市大字羽津甲。2013年に閉館、取り壊し予定。
ラオス館 - 宗教法人「昭和寺」として長野県の霧ケ峰に移築されている。
ウルグアイ館 - ラーメン店「どさん娘」 兵庫県氷上郡(現・丹波市)氷上町市辺 市辺交差点付近にて 現在は取り壊し。
ペルー館 - 喫茶「ペルー」 兵庫県氷上郡(現・丹波市)氷上町市辺 市辺交差点付近にて 現在は取り壊し。
フジパンロボット館 - 愛知青少年公園(現・愛・地球博記念公園)。


 すべて読む  (ウィキペディア)

日本万国博覧会 大阪万博 EXPO'70
1970年にタイムスリップ

日本万国博覧会の概要 準備から閉幕まで

EXPO'70 準備
大阪の千里丘陵から「世界の千里」への5年1ヶ月は「人類の進歩と調和」序曲でもありました。
日本が国際博覧会条約に加盟したのは昭和40年2月、同年9月には万国博覧会の開催が正式に日本で行うこととなりました。
財団法人日本万国博覧会協会が発足し、本格的な準備が始まったのはその1ヶ月後。

高い理想を掲げた「日本万国博覧会」は、昭和45年3月14日午前11時、前夜の春雪に薄化粧された会場で華やかに開幕しました。
この日、式典に出席した内外の貴賓、招待者は約8000人。
開会式の感動は宇宙テレビ中継で全世界に届けられ、「進歩と調和」への願いが、世界の子供達のかわいい踊りの輪にのって世界中へ広がっていきました。

開会
ナショナル・デー、スペシャル・デー
ナショナル・デー、スペシャル・デーの式典や催しは国境、民族、宗教、ことばの壁を越えた人類の祭典だった。
会期中のナショナル・デーは73回、スペシャル・デーは15回。6月29日の「日本の日」の式典には皇太子、同妃両殿下もご出席になり、各国の代表ら会場を埋めた約1万人の人たちに「日本」を強く印象づけました。

世界の顔 VIP
西から東から、万国博を訪れた海外の貴賓は4800人を越えた。わが国の皇室も何度か会場にお見えになり、ほほえましい交歓風景をくりひろげられました。

日本万国博はテーマ「人類の進歩と調和」を実現するための原点であった。進歩と調和という共存の困難なこの主題に人類の高い理想を追求した多くの展示。そして「太陽の塔」は“原点”の“起点”として万国博の輝かしいシンボルであった。
テーマの精神を集約的に表現するシンボルゾーンのほぼ中央、お祭り広場の大屋根をつらぬいて、高さ65メートルの太陽の塔がそびえていた。
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