回想録
2002年05月06日
【回想録「3」】

‥…― 母と父 ―…‥
 当時は、クルマもない、冷蔵庫や洗濯機もない、満足な衣服もない、あるのは寝るところと 食べるところ位である。このように、市民が皆貧乏であれば貧富の差が無いのは当然である。しかし寝るところもなく食うこともできない人々もいた。その人々は、私の家のような 貧乏人の家から食べる物を貰いながら暮らしていた。当時、そういう人々のことを「乞食」 とか「物もらい」と呼んでいた。

 私が3歳くらいのころ、乞食の親子が「食べる物を頂けませんか」と訪問して来た。私の母 親は、その2人に焼きおにぎりを握ってあげていた。良く見ると乞食の親子のほうが、私や 私の母親よりも良い衣服を着ていた。子供は私と同じ年頃の女の子であった。いま元気 にやっているのであろうか。ひょっとしたらバブル景気の頃に大儲けをして資産家になって いるかも知れない。

 そのころ円山病院で幽霊騒動があった。病院のトイレで幽霊を見たという患者が続出したのである。病院側は僧侶の読経で霊を鎮めてもらったようだ。その様子がラジオでも放送された。いま考えれば馬鹿らしいことと思うが、当時はそういう時代であった。

 そういえば、母親に「戦争はどうして起こるの」と聞いたことがある。母親から「人が増えるから戦争をするのよ」という答えが返ってきた。もう一つ「赤ちゃんはどこから産まれるの」と聞いたら「おヘソからよ」という返事だった。3歳の私に対する解答としては仕方がなかったと思うが、市立高女(市立高等女学校)を出たと威張るのなら、もっと適切な解答があったように思える。それは私が3歳、母親が21歳の時であった。

 母親が女学生当時は男女共学ではなかったそうだ。男子校は、一中(現在の札幌南高校)、二中(現在の札幌西高校)、北中(現在の北海高校)と他に札商(現在の札幌商業)などの実業学校があった。女子校は、庁立高女(現在の札幌北高校)、市立高女(現在の札幌東高校)、そして他に静修(現在の静修女子高校)などの裁縫学校があった。

 北中は父親の出身校で、昔も高校野球では有名であった。父親はサッカーの選手をやっていたようで全国大会にも出場した経験があると言って自慢していた。父親は、高校野球が始まれば必ず母校である北海高校の応援をしていた。いつだったか私が「北海高校など負けてしまえ!」といったら、おもいっきり殴られた記憶がある。いやあ目から火花が出て痛かったです。

 札幌駅前や三越前そして狸小路などを歩けば、戦闘帽に白装束の傷痍軍人のグループがアコーディオンを弾きながら寄付を集めていた。聞くところによると、戦争で負傷した軍人よりも、事故で手足を負傷した者が傷痍軍人の服装をして寄付を集めている場合が多かったそうだ。

 豊平川にかかる大きな橋として、豊平橋、一条橋、東(あずま)橋があったが、東橋の下の河川敷に「サムライ部落」という名の集落があった。そこには、戦争や災害で住む家や家族を無くした人々がバラックを建てて住み着いていた。
 職業としては雑品屋が多かったようだ。橋の上から見ると、ゴミの中に人々が住んでいるように見え、その中から元気な子供の声も聞こえた。

母親とオタモイ海岸にて
 母親から聞いた話だが、あのような環境の中で暮らしていても、当時、北大に入った子供や2000万円も貯め込んだ人もいたそうである。

 昔は、なんといっても貧乏人の中の貧乏人といえば公務員や鉄道員であった。なにせ「公務員には嫁がこない」という時代であったから、どれだけ貧乏であったか察しがつくと思う。
 国鉄に勤めていた私の父親も、近所の人から日本一の貧乏人と呼ばれていたくらいである。誰も嫁にこないのを知りながら、なぜ国鉄に入ったのか知りたかったが、もうそのわけを聞くことはできない。
「親孝行したいときには親は無し」とよく言ったものであるが、親がいるときには「親孝行したくないとき親が居る」というのが現実と思うのである。

  私には娘がいるが娘にもそう思われているのかも知れない。数年前は「安室」ルックが流行っていたそうだが、当時の娘も例外ではなく、長い髪を茶色に染めて厚底のブーツを履き、この寒いのに超ミニスカートで出歩いていたのを思い出す。私は「お前、格好だけは真似ができても八頭身だけは真似ができないぞ」と怒鳴ったら険悪になってしまった。

 そもそも、北海道のような豪雪寒冷地に住む人間は脚が短くなるのである。その理由は、豪雪地帯さらに氷の世界で育つため、膝から下は安定性を保つため伸びないのである。そして膝から上は太くなる。
 北海道からミスユニバースやミスワールドが出ない原因はそこにある。もし、脚が長くなるように成長したい、あるいはさせたいときは、雪や氷のない地方で暮らすことをおすすめする。

 ついでに言うと、北海道のような寒冷地に住む人間は、本州のような暖かいところに行くと、玉のような汗を流す。そのわけは、寒冷地であるため、生まれたころから保温のため汗腺の穴が閉じてしまうからだ。
 一方、暖かいところに住む本州の人間の場合は、まんべんなく汗をかくため、玉のような汗をかく人は少ない。したがって東京のような大都会に住んでいたとしても、「脚の長さ」や「汗のかき具合」から出身地の察しがつくのである。

 北海道の春は遅く夏は短い。
 豪雪だけは昔も今も変わらない。おそらく未来も変わらないだろう。

///// つづく /////

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主宰者 元北海道大学工学部 文部科学技官 石川栄一

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