1965年国勢調査



私がまだ高校生の頃である。第何回かは忘れたが1965年に国勢 調査があった。私は親戚の叔父の紹介により、そこでアルバイトを することになった。当時、北海道の国勢調査の本部である企画部 は、中島公園の池の畔にあった。12月ももう下旬だったので、池は 良いスケートリンクになっていた。若い職員は昼休みスケートを楽し んでいた。

1月に入ってから、若くて可愛い女の子(当時のアイドルであった由 美かおるにそっくりな女性)がアルバイトとして採用され、私と同じ係 の仕事をすることになった。国勢調査の調査票は、各市町村から企 画部に集められた。私達はそこで、調査票がきちんと記入されてい るかを確認し、誤記やマークシートなどを修正後、箱詰めし総理府 統計局に送る準備をした。箱詰めされた調査票は段ボール箱で数 百個にもなり、倉庫の中に高く積み上げられた。仕上げは、荷札に 差出人である北海道のゴム印を押す仕事であった。1日がかりで私 と女の子で荷札にゴム印を押して、ようやく終わった頃である、深刻 な顔をしながら主任がやってきて、ゴム印に誤りがあると私たちに 言うのである。

そこで私は、ゴム印を押した荷札をよく見ると、差出人の都道府県 名が、「北海道」ではなく「北道道」となっているではないか。私と女 の子は呆気にとられた。主任は「何百枚もゴム印を押していて何故 気が付かなかったの」と言ったが、私は「まさかゴム印の都道府県 名が間違っているとは知りませんでした」と答えた。そして私は、「押 し直しますか」と聞いたが、主任は「ゴム印を作り直さなければなら ないため、もう締め切りに間に合わないから良いです」と残念そうに 言い残して自分の席に戻った。後から聞いた話だが、都道府県名 が「北道道」になっていても統計局に無事届いたらしい。そもそも、こ れは誰の責任なのだろう。

1.ゴム印を発注した主任の責任か。2.ゴム印を造ったハンコ屋の 責任か。3.ゴム印を押した私の責任か。....それは今でも疑問であ る。

やがて、冬休みも終わり、アルバイトの女の子とも別れなければな らなかった。多少残念であったが、これも運命だと思った。藤女子大 生もアルバイトに来ていたが、その子の昼食はなんと牛乳1本であ った。これではまともに仕事が出来ないだろうと思った。また、その 女子大生から「可愛い女の子と別れて寂しいでしょ」などとからかわ れてしまった。アルバイトをしていて驚いたのは、どこかの宝石商の おばさんが、職員が勤務中であるなしに関わらず堂々と事務室に入 ってきて、セールスをしていたことである。当時の道庁職員は心が 広かったのだろう。
1965年の国勢調査によると、当時の札幌市の人口は約80万人で あった。それから40年が経過、人口は100万人以上も増えたこと になる。

2006.1.5 石川 栄一




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