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【回想録「5」】
‥…― 小学校入学 ―…‥
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私の小学校入学式の前日、父親に自分の名前を漢字で書けるよう特訓された。「栄」という字がなかなか書けず何回も叱られた記憶がある。父親は私にとって生きた字引であり、そのため辞書など必要としなかった。私にはいつも分からない文字や単語の意味を教えてくれた。
最後に教えてもらったのは「森羅万象」の意味であった。父親は酸素吸入をしながら「世の中のありとあらゆる物」と答えてその数日後に死んだ。享年65歳であった。戦前は皇軍の兵士として中国軍と戦い、戦後は貧乏と戦い、退職後は腎臓病と戦い、そして一人の赤子(せきし)が戦死した。
私が通った小学校は畑に囲まれ、通学路の途中には大きな肥溜めが数ヶ所あった。その肥溜めに石ころを投げて遊んだものであった。大きい石ほどそのしぶきが豪快であった。石をドボッツと投げ込むとワンステップをおいてからベチャとしぶきが上がるのである。私は肥溜めのしぶきを上げながら意気揚々として通学したものであった。
クラス編成は男子と女子半々であった。小学校入学前は、私の周りの子供は殆ど男子であったから、女子と遊ぶことはほとんど無かった。そのため、私はいいかっこしようと有頂天になった。そして休み時間、ある女の子を押しつけて怪我をさせてしまった。担任の男性教師はその子の家に謝りにいった。毎度そのような事が続いたせいかどうか、クラス担任として就任してから僅か半年で病気になり、とうとう入院してしまった。その後、後任として若い女性教師がやってきた。
この女性教師は非常に厳しい人であった。ある日の昼休み、私は友達と「3つ並べ」というゲームをしていた。この「3つ並べ」というゲームは、体育館のコンクリートの階段や地面に石筆でゲーム板を描き、相手と相互に対面させて、石を3つ並べ、ジャンケンで勝った方から先に1コマずつ移動させ、先に相手方の石が置いてあったところに自分の石を3つ並べたほうが勝ちというゲームである。ゲームをするのに必要な道具は石筆もしくはチョークのみであったため、ほとんどお金をかけずにゲームをすることができた。
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【小5の時(最上段右から3番目が私)】
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さて、「3つ並べ」ゲーム終了後、私の周りで「鬼ごっこ」をしているグループを発見した。入れてもらおうと思ったが相手にしてもらえなかった。私は、面白くなかったので、思いっきり蹴っ飛ばした相手が女の子だったのが不運であった。午後の授業が始まるとき、クラス担任の女性教師にビンタをはられたのである。私には少年時代から女難の相が出ていたのかも知れないが、自分が悪いのだから仕方がない。学校帰り、非常に面白くなかったので畑の肥溜めに特大の石を投げ込んだら、ベチャッと爽快にしぶきが上がったのを今でも忘れない。
その後、多くの友達もできて誘い合って通学した。主な友人は、幼年時代に遊んだ近所のガキ軍団の連中であったが、そのガキ軍団に女子友達も加わった。女子友達の中には幽霊の話が好きな女の子もいた。幽霊の話が好きだといっても女の子自身が話す怪談、奇談である。
私は女の子が話してくれる怪談、奇談を毎日楽しみにしていたが、あまりの怖さで、夜、トイレにも行けなくなることがあった。お盆、墓参りにいくと何となく不気味であった。
円山公園の南側、裏参道の横に坂下公園があり、その奥に円山墓地がある。円山墓地には、父方の爺ちゃんの墓があった。私は毎年、両親に連れられてお参りにいった。ゆかたを着て下駄を履き、ちょうちんを下げていくのが楽しみであった。時々、ローソクの火が、ちょうちんにうつって燃やしてしまったこともあった。墓地には、母子の乞食がたむろしており、墓参がいつ終わるかを乞食の子供が陰から探っているのが分かったが私の両親は気にはしていなかった。おそらく私たちが帰った後、供物を食べたのであろう。
飽食の時代、いま「ギャル」とか「コギャル」などと騒いでいる連中には、札幌市中央区の小学校の通学路のそばに肥溜めがあったとか、円山墓地に乞食がたむろして供物を食べていたと話しても信用しないと思う。
「かわいい子には旅をさせよ」という言葉があったが、私の娘は「かわいくなくてもよいから旅させないで」と言う。嘆かわしいことと思うが、平和で豊かな証拠なのかも知れない。
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///// つづく /////
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