回想録
2002年05月06日
【回想録「2」】

‥…― 祖父の想い出 ―…‥
 先日、叔父の49日忌の法要があった。私くらいの年になれば、結婚式よりも葬式や法事が多くなるものである。
人の魂は何処から来て何処へ行くのであろうか。

 私が6歳の時、父方の爺ちゃんが死んだ。母方の爺ちゃんは2月の厳冬期に黒松内の土木工事のとき脳溢血で倒れた。馬ソリで病院に運ばれたが既に息絶えていたそうだ。
 座棺の中に納められた白装束の爺ちゃんの姿が私の目に焼き付いている。葬式の行列は思い出せないが赤煉瓦作りの火葬場は記憶にある。今思えばゴミ焼却炉のような形をしていた。これは黒松内村(現在は黒松内町)の昔の火葬場である。

 私が子供の頃、札幌市の火葬場は平岸にあった。手稲や豊平にもあったそうだが、当時は、まだ手稲町も豊平町も札幌市とは合併しておらず、それぞれ独立した町であった。

 平岸霊園には12の火炉があったが、どういうわけか火炉の最終番号は13であった。つまり、欠番の火炉が1つあったのである。さて、欠番は何番目だと思いますか。(A)4番、(B)9番、(C)13番の中から選びなさい。※「解答(B)」
 現在、平岸火葬場のあとには市民プールが造られた。ここで時々水死が出るのは、死者の霊に足を引っ張られるからだそうだが定かではない。

 さて、何年前か札幌市の火葬場は里塚霊園に移ったが現在は飽和状態であるそうだ。特に、友引の翌日は混んでいるため、葬式バスや霊柩車で渋滞し30分以上も火葬場の前で待たされることもある。どうやら、あの世もクルマ社会のようであり、この世の大渋滞を乗り越えなければ昇天できないらしい。

 あと10年後には里塚火葬場は飽和し1日では全ての遺体を処理できなくなるという。火葬場建設地周辺では反対運動が起こるに違いない。葬儀場でさえ建設反対運動が起こるご時世であり、それが火葬場ともなるとなおさらのことである。平岸に火葬場があったころには、その日の気候によって周辺に灰が降ってきたそうである。里塚火葬場周辺には灰は降らないのだろうか。

 葬儀場といえば、いまは音と光で演出する葬儀が増えてきている。祭壇の背景や会場に星空を映し出したりするのである。これでは結婚式とそれほど変わらず、違うのは参列者のネクタイの色だけであろう。そのうち葬式にキャンドルサービスも登場するかもしれない。つまり、こうだ。
 司会者の開会の辞の後、厳かな葬送行進曲にのって葬儀委員長を先頭に棺と喪主が入場。読経をバックミュージックとして故人の略歴奉上、弔辞の拝受、弔電の拝読と続き、参席者ご焼香、葬儀委員長挨拶、喪主挨拶、閉会の辞で締めくくる。こんな時代がやってくるのだろうか。



【チャンバラで遊ぶ(左端が私)】

 父方の爺ちゃんは、母方の爺ちゃんの死後2ヶ月後、私が小学校入学時の身体検査のとき脳溢血で倒れた。自宅には親戚や町内の人達が集まっていた。そして10日後に死んだ。爺ちゃんは苗穂機関区で機関士の指導に携わっていたそうだ。

 私の思い出に残っているのは爺ちゃんが愛用していたチリ紙である。チリ紙といっても、今のようなティッシュではなく、新聞紙を4つに切って、5枚くらい重ね合わせて見開きにしたものであった。爺ちゃんはいつも洋服のポケットに入れて持ち歩いていた。

 それでは、どうやって鼻をかむかというと、最初の頁を開き、見開きにしてそのまま鼻をかみ閉じる。次回、鼻をかむときは、次ページを開いて鼻をかむ。最終頁にきたら最初に鼻をかんだ頁に戻って、乾いていればそこで鼻をかむ、というように省資源の方式である。経済的ではあるが欠点が2つある。それは少しバッチィことと、鼻の周りが新聞紙のインクで黒くなることである。

 当時、インクの質が粗悪であったため、新聞紙を指でこすっただけでも汚れたのである。湿った鼻をかむと当然のことながら鼻が汚れるのであるが、そこは年の功といおうか目立たなくする方法があった。それは、口髭や顎髭を生やすことであった。そうすることにより新聞紙のインクが鼻の周りについたとしても、さほど目立たなかったようだ。昔の人が口髭や顎髭を生やしていたことが納得できる。

 また、当時はトイレットペーパーというものがないため便所紙は古新聞を使っていた。現在の水洗化の時代ではとうてい考えられない。何もない時代の生活の知恵というものであろうか。
 何もない時代のほうが、市民に様々なオリジナリティが身に付くのかもしれない。

///// つづく /////

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主宰者 元北海道大学工学部 文部科学技官 石川栄一

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